教養教育:教育

芝山 豊

「鈴と小鳥とそれから私、みんなちがって、みんないい。」
なのに、どうして世界は?日本は?多様な文化と私たちの<いま>を、驚きのライフ・ヒストリーと映画やメディアを手がかりに考える<共生>のための文化学。

[2010.04.02]  2010:04:02:10:34:19
体験型授業『森の思想』の報告書完成

清泉女学院大学の特色ある体験型授業科目のひとつである『森の思想』の報告書が完成しました。

『森の思想』は、生態学的な知識を知るだけでなく、森を守り育てるために、生産から消費までの現場を知り、森と関わり、地域社会で共に生きていく市民の育成を目指すものです。

2008年~2009年の授業は、まず総合地球環境学研究所のナチンションホルさんの講義の後、開学以来お世話になった作家C.W.ニコルさんのアファンの森を訪ねて、森を守り育てる事業の実際を体験。続いて、長野県林務部信州の木振興課の山口勝也さんらのご協力を得て、座学の後、地域の林業現場に出て、間伐作業などを体験。製材所にならぶ輸入材と信州産の材にじかに触れた後、「信州の木」にこだわってお家を建てられ消費者のお宅を訪問して、木の家の価値を聞くといった充実した内容でした。

報告書はA4版全58ページ。内容は以下の目次の通りですが、学生自身が作成した報告書を中核にさらに詳しく学びたい方のために、ナチンションホルさんの論文を収めました。また、今後の授業のサブ・テキストとしても使えるように各講義資料も掲載しています。

目次

『森の思想』序にかえて

論文
『モンゴル国における植生資源とその利用』

学生報告書
 1:ナチン先生の講義
   生態学的な視点 世界の森、日本の森
   森林と動物
   自然環境と人間社会における森の機能
   モンゴル人と日本人の森の関わり方

 2:アファンの森の実習
   アファンの森の報告から

 3:長野県林務部の講義と実習
   林業について
   長野県の間伐問題について考える
   林業現場で使用されている重機について
   木造住宅について

   引用参考文献

付録 
   ナチンションホル講義資料
   アファンの森見学資料
   長野県林務部講義資料

あとがき


なお、印刷部数に限りがあり、学外からの冊子のご希望すべてには応じられません。近々、pdfファイルで配布できるようにしたいと考えています。

 

[2009.03.12]  2009:03:12:12:57:24
花粉症と文化共生

通称、「うちのゼミ」(あるいは、「あのゼミ」)の伝統、1)研究室でのゆるーい会話、2)何をテーマに書いてもよいが、あとが怖い卒論での涙と汗(念のため、血はでません)、3)就職・進学率100%、そして、4)卒業前の研究室の大掃除、それらすべてが今年も守られて、今週末、ゼミ生たちが巣立ちます。
しみじみした思いに浸ろうとする矢先、花粉症が悪化、しみじみどころではなくなりました。

花粉症については様々なことが論じられます。

そのひとつは、スギ花粉との関連で論じられる日本の森林行政です。
針葉樹に特化した植林は、日本の固有の自然の生態系とは異なる「木の畑」づくりでした。
しかも、生産した木材が外国から輸入される木材との競争力を失ったわけです。
お金にならない「畑」は荒れるにまかされる状態になり、様々な問題を引き起こしました。

森林や草原のことを考える場合、大事なことは、抽象的に考えることではありません。
かつて、森を守るために、「割り箸の使用を止めよう」というようなことがさかんに言われました。
しかし、いま大事なのは、国内の間伐材の割りばしを積極的に使って、間伐材を経済活動の中に組み入れることです。
勿論、使い終わったら、集めて有効活用する工夫も必要でしょう。森や草原を守ることは、動物や人間の活動を締め出すことでは出来ないのです。動物や人間が自然の一部として、その環境に負荷をかけることが、生命のサイクルに重要な意味をもっています。

2008年度、本学で行ったフィールド科目、『森の思想』というユニークな授業のキーワードは、「中規模撹乱」という生態学用語でした。人間や動物が、森や草原を使用する(撹乱する)ことで、かえって植物の生産性が高まり、豊かな森や草原が出来上がります。そのために、撹乱は、大きすぎても、小さすぎてもならず、中規模でなければならないのです。

中規模撹乱は我々が訪れたC.W.二コルさんたちが進める「アファンの森」の自然保護活動にも、長野県の林務部が行っている県産材の活用にも、繋がる大切な概念です。それには、その土地、その土地の暮らし方と文化が密接に関わっています。

内モンゴルで進められている「生態移民」に代表される普遍主義的な政策の危うさは、草原を救うために、その中規模撹乱をもたらすはずの、土地に固有の暮らし方、つまり、遊牧の文化を根こそぎにしてしまう危うさであるような気がします。

壮大な規模の森林への撹乱の結果、花粉症の仲間入りをした御同輩、洟をたらしながら、文化共生に大切な、それぞれの場所、それぞれの文化について考えてみて下さい。

 


 

[2009.02.24]  2009:02:24:12:36:06
アカデミー賞受賞スピーチと文化共生

アカデミー賞の授賞式をTVで見ました。『おくりびと』の受賞には、中高時代の同級生が出演していることもあって、心がはずみました。(O君、おめでとう!)

オーストラリア人のヒュー・ジャックマンが司会をつとめたセレモニーはスムーズで、なかなか印象的な受賞スピーチもありました。

中でも異彩を放つのは、やはり、ショーン・ペンです。

前回の受賞時に、「俳優にわかっていることは、イラクに大量破壊兵器がなかったことの他には、演技にベストなんてないということだ」とスピーチした彼は、今回、冒頭に、Thank you. You commie, homo-loving sons-of-guns. と笑わせて、型どおりに、謝辞に移った後、
for those who saw the signs of hatred as our cars drove in tonight, と続けました。
私の見た放送では分かりませんでしたが、会場の外には、彼の出演作に関わる同性による結婚の問題をめぐって、敵意を露わにした人々の姿もあったのでしょう。
ペンの主張は明快で、その立場に曖昧さは微塵もありません。
We've got to have equal rights for everyone.
その力強い主張は、アメリカの最上の部分であり、同時に、アメリカがアメリカであり続けるための絶え間ない闘争の場でもあります。
ペンは言います。
I'm very, very proud to live in a country that is willing to elect an elegant man president

もっとも、その大統領の使う We が アメリカ人だけでない everyone の意味で使われるまでには、まだ少し時間がかかりそうです。人権は普遍の原則にたたなければ護ることは難しいわけです。だからこそ、「世界人権宣言」のようなものがとても重要になるのです。同時に、人間は、ある文化的コンテクストの中でしか生きることができないわけですから、ある生態環境の中の文化的なコンテクストと普遍性的な価値が対立するようなことがしばしば起こります。文化的なコンテストの中に含まれる、さらに深層の普遍性を丹念に読み解きながら、憎しみや差別の壁をたたき壊していかねばなりません。文化共生は多様性をなくすことでは成立しないのです。

言葉は世界の切り取り方と同義です。ですから、アカデミー賞のような、極めて限定的な人々によって運営される賞に、「外国語による映画」の賞が置かれていることの意味はとても大きいと思います。映画は、「世界は様々に切り取ることができる」という事実を共有することができる、大切な芸術のひとつなのです。


 

[2009.02.18]  2009:02:18:14:29:57
村上春樹氏のスピーチと文化共生

時事通信は以下のように伝えています。
【エルサレム15日時事】作家の村上春樹さん(60)は15日、イスラエル最高の文学賞「エルサレム賞」を受賞し、エルサレム市内の会議場でスピーチを行った。村上さんは、イスラエルのパレスチナ自治区ガザ侵攻を批判、日本で受賞をボイコットすべきだとの意見が出たことを紹介した。 村上さんは例え話として、「高い壁」とそれにぶつかって割れる「卵」があり、いつも自分は「卵」の側に付くと言及。その上で、「爆弾犯や戦車、ロケット弾、白リン弾が高い壁で、卵は被害を受ける人々だ」と述べ、名指しは避けつつも、イスラエル軍やパレスチナ武装組織を非難した。 

また、朝日新聞は以下のように伝えています。
【エルサレム=平田篤央】イスラエルのメディアは、15日に作家の村上春樹さんがエルサレム賞の授賞式で行った講演について、批判的には伝えず、授賞式に出席したことに力点を置いた。 16日付の有力紙ハアレツは講演を「詩的」と表現し、村上さんが「ガザで多くの無実の人が殺された」と述べた、と客観的に伝えた。また「イスラエルに行くなと言われたが、自分の目で見ようと決意した」との内容を引用した。 英字紙エルサレム・ポスト(電子版)は「得意の難解さで受賞理由を説明」の見出しで、講演は「真にムラカミ・スタイルの、あいまいともいえるもの」としたうえで「時差と政治的反対を押し切ってエルサレムで受賞した」などと報じた。

エルサレム・ポストを読んで見ると、確かに、村上氏が周囲の反対にも関わらず、授賞式に出席したことが強調されています。しかし、その記事には、英国のガーディアンなどと同じく、以下の箇所も引用されています。
"If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg. Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals."

このno matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the eggの箇所は仮定法にはなっていません。壁の存在は現実ですから、壁の正当性や卵の誤りを認める文章として読むことも可能なわけです。(勿論、文脈から考えて、村上氏の意図は壁の正当性を認めることにあるわけではありませんが。)

紛争や対立に関わる問題は、多くの場合、人々にサイドを取ることを求めます。明快に見える行動が意図とは逆のサイドを取ったと誤解されることもあり、サイドを取らないことがサイドを取ることである場合もあります。さらには、サイドを明らかにすることが問題解決への関わりを阻害することもあります。問題の解決が、0か1かの二項対立的な思考からはもたらされない場合も少なくないでしょう。

オバマ大統領の就任演説には、We will not apologize for our way of lifeという箇所がありました。このwe にはその後に続くyou は含まれていません。こうした主語の形式で話す人々から見れば、村上氏の行動とスピーチは、(エルサレム・ポストが言うように、)trademark obscurity に満ちたvagueなものだったかも知れません。

報道によれば、村上氏はwe の後をare all "human beings, individuals, fragile eggs" と続けています。村上春樹氏の行動とスピーチへの評価は、人々の立場や意見によって様々でしょう。(ガザの人たちの意見を直接聞くことは依然として困難な状況にあるわけです。)

ただ、いずれの立場をとるにせよ、《曖昧さ》をめぐる問題も含めて、村上氏の行動とスピーチには、文化共生を考えるための重要なヒントが潜んでいるような気がします。


 

[2009.02.11]  2009:02:11:17:23:58
Progress in English フリン先生の教科書

2009年2月7日 ロバート・M・フリン神父が帰天されました。享年88歳でした。
六甲学院での30年間、泰星学園での6年間を通じて教導を受けた教え子たちが先生を見送ろうと、通夜と告別のミサに集いました。平日であったため、駆けつけたくても思いを果たせなった方々も多かったと思います。(その方々には、すぐにも駆けつけたい思いを抑え、それぞれの責任や義務に専心することを先生も望まれたでしょう。)
教え子たちによるミサの説教と弔辞は本当に素晴らしいものでしたので、ここで先生について拙い言葉を重ねることや、個人的な思い出を語ることは控えたいと思います。

ただ、フリン先生のご帰天の事実は勿論、自分がフリン先生に学んだことさえ知らない「教え子」たちのために少しだけ書いてみたいと思います。

Progress in English という教科書で 英語を学んだ人がどれほどの数にのぼるのか、私には分かりませんが、ある意味で、その人たちはみんなフリン先生の教え子だと思うのです。

「受験校で使われている高度な教科書」という程度の認識しかもっていない人もいるかも知れません。しかし、フリン先生が一人でその基礎を作られたProgress in Englishはただの英語の教科書ではありません。そこには先生の思想と生き方のすべてが込められているのです。

例えば、(昔の記憶に間違えがなければ)、以下のような文章がありました。
“The way of the heart” is something heroic, yet something common. It is wise and it is foolish. It is obvious and it is indescribable. To put it in the abstract, it is desiring the true happiness of another and striving to achieve it at any cost to oneself. In a word, it is love. Such is the way of the heart.

よく世間では、言葉は道具だといいます。「使える英語」と言うような人もいます。しかし、道具は何のために使うのでしょう。なんのために使うのか教えなければ、道具を教えたことにはなりません。

フリン先生の教科書は「教科書を教える」ための教科書ではありませんでした。それは「教科書で教える」ための教科書でした。その「教科書で教える」ものは、ただの道具ではなく、何故、道具が必要なのかという本質です。

自分では教え子だと気づくこともない人々も、ふと教科書の一節を思い出して、人生のヒントを掴むことがあるかも知れません。